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【8月例会】京セラを支えたTOP営業

2019年8月26日、8月度の例会がリッツカールトン大阪で開催されました。

講師は新潟出身で、京セラの稲盛和夫さんの後任として2代目京セラを支えて来られた安城欽寿氏に講演頂きました。

今回のEO例会では「京セラを支えたTOP営業」というところをテーマにご講演頂きました。

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※以下、安城氏の講演の一部を抜粋しレポートさせて頂きます。
新潟の出身の自分がなぜ京都の京セラへ入社することができたのか??
私は1959年創業の京セラに入社したのですが、会社ができたばかりでいつ潰れるか分からないが紹介しようかと知り合いに言われ、とにかく入って給料がもらえればいいや、というような気持ちで面接に行ったのが、当時できたばかりの京セラでした。

その年の10月に面接に行った瞬間に作業着を渡されて、とにかく雑用からスタートしたのが私にとっての京セラ人生の始まりでした。正月の2日か3日の休みだけはもらえた記憶がありますが、休みのあと「せっかく4年も通ったから大学を卒業がしたいから大学に行きたい」というと、「卒業なんかしないでもいいじゃないか!!」と言われたのをよく覚えていますね。卒業試験が終わるや否や卒業式も待たずに28番目の社員として入社したんですよ。

当時は残業がどうのというよりかは「寝てはいけない」というような労働環境でしたね。残業代なんてものはあってないようなものでしたよ。2時間寝てしまうと怒られたというような環境だったのをよく覚えています。
そんな中で一番やりたくなかった「営業」をやらないなら辞めろと言われて仕方なく始めたのが私にとっての営業職だったんですね。

そんあ営業人生の中で考えたのは「目立つ営業」でした。

とにかく他の会社がいかない日にいくことを心掛けましたね。そしていくら怒られても殺されることは無いと考えて、とにかく怒る人のところにいくようにしました。お茶を出してくれるような親切な人ほど注文をくれないんですよね。それに対して怒るようなお客さんほど注文をくれるものなんですよね。当時の京セラは生産も間に合わないような工場の体制でしたから、せっかく注文を取っても納期に遅れるんですよね。だからまたお客さんに怒られるんですよね。その繰り返しでした。
本当の京セラの元はテレビの絶縁部のセラミックを松下電器も含めて、ありとあらゆるメーカーの注文を受けたことが成長の始まりでありました。当時私の初任給が1万円ぐらいで、カラーテレビが30万円したわけですから、どれほどお金持ちの家にしかなかったのかはお分かりになるかと思います。ありとあらゆるメーカーに営業にいくことが出来たのは松下の確か、最後は常務になられた方が「うちが使うんだから他所にも売りにいって自社の商品の良さを証明してこい」と言ってくれたのがきっかけでした。今でもこの時の感動話は当時の仲間の間では、あれがターニングポイントだと話に出るぐらいなんですよね。

稲盛会長(当時は専務)が良く言っていたのは「とにかく俺たちはセラミックで世界一になろうや」と言われていて、そう言われてどうやったら世界一になれるんだ??と考えたのを強く覚えています。笑い話ですが、古い人間ほど今のような京セラになることを想像していなかったと思います。

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※以下は質疑応答での回答です。
Q:京セラ哲学をどのように幹部にインストールしましたか?
A:京セラ哲学は稲盛さんから出た話ですが、我々社員はこうあるべきだという当たり前のことを会議など、こと有る事に強調されてきたことで当たり前に浸透していったといえますね。できない、嫌だなんて言う人は自ら会社を辞めていったかその人が勝手に変わったかのどちらかですね。とにかく「世界一にする」という稲盛の言葉が先行したといえますね。

Q:新入社員として入社し、そのタイミングでグローバル企業の経営者になろうと覚悟されたのかきっかけがあれば教えてください」
A:稲盛社長の下で京セラはずっと倍々での成長を遂げてきた。そんな中売り上げが落ちる瞬間が来た。その時に稲盛が自分を呼んで、技術の京セラから営業の京セラに変えようと言い、自分を社長に据えました。元々嫌だと言っていたが、やれという一言は絶対でしたからね。25歳の時に入社して37歳の時に大阪2部に上場した時に取締役になりました。それまでに実はボーナスをお金でもらったことは無かったんですよ。上場前の株でもらって、その株を紙きれにするのか化けさせるのかは君次第だと言われました。そうしてそんな中で52歳の時に社長をすることになりましたね。(一部省略させて頂いております)

Q:マーケットが拡大しない状況での営業先の開拓について教えてください、例えば現在のような状況です。
A:当時営業先を増やして潰れるような会社への営業を取ってきたらよく怒られました。当時は潰れそうな先でも金さえ持って帰ればOKだというような状況で、今でこそ笑い話ですが、支払いの代わりにその会社の社長の車を乗って帰ってきたような営業もいましたね。伸びない中でも開拓して後で集金に関しては考える!というような営業社風がありましたね。
電話機を代わりに持って帰ってくるような営業もいたんですよ。警察沙汰になって金を払わない客との仲裁に入ってもらったようなこともありました。

Q:物凄く稲盛さんに怒られたのに、それでも京セラにいようと考えたのはなぜですか??」
A:アメーバ経営という論理でセクションが分かれていたことが完全に救いになりました。小さく分割して経営者会議でその人が全てをぶつけにいく、そのセクションの長の人に社員はついていこうとする。細かく分割してそれぞれに責任を持たせてくれていたことですね。

Q:稲盛会長の側近として、安城さんにとっての稲盛さんはどういう存在の人でしたか??
A:経営者として、会社を引っ張っていく存在として尊敬していますね。必ずしも率先垂範するわけではないのですが、とにかく包括して物事を捉えることができる方でしたね。
終始真剣な雰囲気の中で行われて、記事には書けないような笑い話や泣きそうなお話もたくさんありました。京セラの2代目社長として稲盛和夫氏の様々な本質を聞くことができました。安城氏自身も綺麗事や美談ばかりでは語れないが、とにかくがむしゃらに生き抜いて有言実行を徹底した営業人生であったと振り返られました。

 


次回、ゲスト参加可能な例会です。
志高き起業家のご参加を心よりお待ちしております。


EO Osaka 9月度月例会

テーマ:『事業売却から旅人そして事業買戻し』

講師:株式会社ペイフォワード 代表取締役
シナジーマーケティング株式会社 取締役会長
谷井 等 氏

日時:9月24日(火) 18:00~22:00

場所:ザ・リッツカールトン大阪

https://www.eoosaka.org/join/form/